国立駅前円形公園:水禽舎

 国立駅南口に出ると駅前広場の中央に円形の土盛り(名称は「円形公園」)がありますが、その中心部分に池があるのをご存知でしょうか?
 現在は、駅前広場がロータリーとして機能しているので多くの車両が通行し、円形公園自体が立入禁止でもあるため、歩道からちょっと眺めただけでは気づかないかもしれません。国立駅下り線ホームからや、たましん歴史・美術館での鑑賞の際、あるいは同歴史資料室を利用した際などちょっと高い位置から駅前広場を眺めてみると、水をたたえた池の存在を確認することができます。

 

 国立駅周辺が開発されて間もない大正末期・昭和初期の写真や絵葉書などには、当時この池の上部に金網状のものが掛けられ、池の周りに多くの人が集まっている様子が分かる資料があります。一体この池、当時は何があったのでしょうか?

 実は、上部にケージを設けて中で水鳥が飼われていたのです。「水禽舎すいきんしゃ」が、この池の設置当初の使われ方でした。

 

 この駅前にあった水禽舎は、大正13(1924)年から同15(1926)年にかけて箱根土地株式会社(以下本文では「箱根土地」とします)が新宿で開園していた「新宿園」[1]現在の新宿区新宿5丁目の一部に所在していました。なお、『新宿園町会史』町会結成五十周年記念誌(新宿園町会、昭和57年7月)の「絵図でみる当町附近の変遷」(P38~44)には、新宿園となる前の浜野邸の地図や、閉園後に住宅地として分譲した後の町内居住者図などが掲載されています。 という遊園地に設けていた施設を、その閉園にともなって国立に移してきたものでした。
 新宿園の売却に関しての新聞広告[2]『読売新聞』大正15年1月19日掲載広告。なお、この広告については、渡辺彰子『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』(株式会社サトウ、平成27年8月2日)P199掲載資料を参照しました。 では、「新宿園今日迄の苦心経営を思ふとき誠に愛惜の念に堪へませんが商大中心百万坪大学町建設のため断然之を売却する事に決定しました」として、国立大学町の建設を成功裡に導くため、「本社の有する総べての財源を一つに此所〔国立大学町:引用者〕に集め」るにあたって、新宿園の売却に踏み切った旨を述べています。また、大正15年4月に箱根土地が発した案内でも、「五月二日より閉園するの止むなきに立至申候」と新宿園の閉園に触れ、加えて「当園内の設備一切を国立大学町に移転致候」として、その設備を国立へと移すことが示されています。

 新宿園の設備については、『建築写真類聚』(遊園地の建物)[3]建築写真類聚刊行会編『建築写真類聚』第5期・第15回(遊園地の建物)、洪洋社、大正15年5月25日。なお、この写真集における新宿園の記載にも、「住宅地になる筈で最近閉園した」とあります。 に入口門や白鳥座・孔雀館といった主要建物[4]前掲注3写真集に拠れば、いずれの建物も箱根土地株式会社設計部による設計。 の写真が掲載されていますが、その他の施設については残念ながら掲載写真がありません。新宿園にあった水禽舎がどのようなものか、その外観を具体的に確認しうる資料は、管見の限り見つかっていません[5]箱根土地株式会社『第拾壹回報告書』(大正14年上半期)P14には、水禽舎について「同〔鉄骨網張建:引用者〕 壹棟 建坪貳拾坪五合貳勺」との記載があり、約88㎡の大きさであったことが知られます。
 なお、白鳥座は童話劇場として、孔雀座は活動写真館として建設された施設[6]箱根土地株式会社『第拾回報告書』(大正13年下半期)P2。同報告書P6には、両館新築に関して大正13年9月2日に警視総監より許可を得ていることが示されています。なお、新宿区立新宿博物館編『キネマの楽しみ~新宿武蔵野館の黄金時代~』(新宿区教育委員会、平成4年2月)P44に拠れば、孔雀館は大正14年1月頃に開館、同15年4月頃には閉鎖されたようです。で、「当時の水準からすると、いずれも相当の規模・設備・外観をそなえたもの」[7]野田正穂「新宿にあった遊園地の話」新宿区立新宿歴史博物館編『ステイション新宿』(新宿区教育委員会、平成5年10月)P72。 であったようです。また、新宿園の入口門が水禽舎と同様国立に移されてきていることが、当時の写真から確認されます[8]前掲注2資料集P65下段掲載写真。移されてきた門は、東2号線と旭通りが接する辺りに位置していました。また、同資料集P35上段掲載写真や『東京商科大学商学専門部 卒業記念写真帖』(昭和3年3月)にみられる東京商科大学専門部の移転記念祝賀会の門柱も、同じ門柱が利用されたものとみられます。

 

 前記の箱根土地による新宿園閉園案内には、新宿園の「設備一切」〔下線は引用者〕を国立大学町へ移転するとしていることから、他にも移された施設があったものと考えられます。国立大学町が建設されて間もない頃には、「富士見通りの入口角には孔雀小屋、富士見通りから国立学園小に曲がる角には熊小屋、いまの音大付属高手前の十字路角には猿小屋があった」[9]国立市史編さん委員会編『国立市史 下巻』(国立市、平成2年5月25日)P111。なお、同様の内容は、志田次子『くにたちに時は流れて』(朝日新聞名古屋本社編集制作センター、昭和63年11月11日)「35 孔雀・熊・猿」(P74~75)、および後掲注12聞きとり資料にも認められます。 とされており、これらも新宿園から移されてきた施設であるとみられています[10]渡辺彰子『くにたち:商店街形成史―国立大学町を中心として―』(株式会社サトウ、2000年2月15日)P35。。箱根土地の営業報告書には、新宿園の財産目録として「孔雀小舎」・「猿小屋」・「動物舎」の建物が記載[11]前掲注5報告書P14。なお、前掲注2資料集P196に掲載されている『新宿園案内』にも、「孔雀小舎」・「猿小舎」・「水禽舎」・「おっとせい」「小禽舎」といった諸施設が図示されています。されており、これらの諸施設が移されたものではないかと推察されるところです[12]『私たちの町くにたち』聞きとり資料(1)国立開発~昭和20年(国立町、国立市公民館図書室所蔵)「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」には、「音大〔現在の国立音楽大学附属中学校・高等学校:引用者〕の前に小鳥がかってあった」との話があり、これも新宿園の「小鳥舎」(前掲注11営業報告書)が移されてきたものかと察せられます。

 新宿園より国立駅前に移された水禽舎は、国立大学町分譲における集客装置の役割を与えられたものとみられます。箱根土地が分譲のために作成した『国立分譲地案内』(大正15年頃)では、「国立駅前水禽舎」と題して写真入りで紹介されており、分譲の営業活動において、駅前広場の中心部という立地条件で人々の関心を惹き付ける、そのような役割を担っていたことが窺い知れます。

 余談ですが、この水禽舎が設置される前には、この円形公園の位置には箱根土地の仮営業所が建てられていました[13]前掲注2資料集P25下段掲載写真、同P43掲載写真などを参照。。元箱根土地社員からの聞取り資料にも、「ロータリーのところに3mぐらい高く土を盛ってそこに事務所をたてて、そこで客を案内した」[14]前掲注12聞きとり資料「芦沢さん(もと箱根土地社員)の話 76.5or6月」。なお、この話に続いて「そしてだいたい分譲ができてもういいというので池を掘って水きん舎にした。ペリカン、鶴などいた。道の辻々にいろんな動物がいた。」と当時の状況が語られています。 とあり、水禽舎の池が設置される前の状況を知ることができます。
 また、現存資料に大正14(1925)年頃の『国立駅前展望台』と題した図面[15]当館編『学園都市開発と幻の鉄道~激動の時代に生まれた国立大学町~』((財)くにたち文化・スポーツ振興財団、2010年10月8日)P28掲載、(株)プリンスホテル所蔵資料。 がありますが、この図面から当初の計画では、円形公園部分に高さ180cm程度の展望台を設置しようとしていたことが分かります。写真資料からは、先の仮営業所が同程度の高さの盛り土の上に建てられている点が確認でき、分譲における営業活動で眺望の果たした効果が、その後の展望台計画へと繋がっていった可能性も考えられるところです[16]前掲注15図録P28では、実現しなかった展望台計画の後に、噴水設置の計画があった点を指摘しています。『国立・あの頃』(国立パイオニア会、昭和47年11月5日)P181には、国立の記憶として水禽舎の中に噴水があったとされており、興味深いところです。

 駅前広場の中央に位置した水禽舎は、やはり当時人々の注目を集めたようで、国立に関する思い出などでその様子を語ったものが散見されます。
 国立パイオニア会による『国立・あの頃』[17]『国立・あの頃』国立パイオニア会、昭和47年11月5日。 には、まだ草創期であった頃の国立の思い出が多く記録されています。そのページをざっと繰ってみると、「其の当時の国立駅を出ますと、すぐ駅前の水禽舎は本当に見事で、富士見通りには又、熊小屋とか猿小舎があり」(P12千葉竹治氏)、「駅南口の直ぐ前に、高い大きなドーム型の金網が造られていて、その中に噴水があり、それを取り囲んだ池に家鴨や鴛鴦、インコなどの禽鳥や小鳥の飼われていたのが強く印象に残っている」(P181小坂田聖治氏)、「国立の朝は、駅前の水禽舎の鶴の一声で明けた。駅前の一群の建物以外には、松林の間に色瓦の家が文字どおり点在する程度の国立の町に、毎朝鶴のかん高い声がひびきわたった。そして国立の活動がおもむろに始まるのである」(P205辛島礼吉氏)と水禽舎とその周辺との関わりが窺えるエピソード等、当時の様子について貴重な内容を確認することができます[18]第16代国立駅長であった堀越義克氏による『駅の歴史 国立駅』(昭和47年1月)P4にも、「当時の駅前広場には孔雀・ペリカン・鶴・オシドリ・がんなどの鳥が飼ってあって、ゆっくり鑑賞出来た」との記述があります。なお、当該資料は当館前館長の荒井敏行氏よりご提供いただきました。

 国立駅舎とともに駅周辺のシンボル的存在であった水禽舎は、現存する資料にも比較的多く写されています。しかし、そのケージの中の様子まで分かるものは、殆んど確認できていません。箱根土地の常務取締役などを務められた中島陟氏の資料中にある1枚は、水禽舎の内部を詳細に知ることのできる唯一ともいえる資料で、大変貴重な写真です[19]前掲注2資料集P61上段掲載写真。

 この写真から水禽舎には、①ゴイサギの類、②コウノトリの類、③シギの類、④カモの類、⑤ガンの類が飼われていたことが確認できます。大正期から昭和初期においては、日本には生息していない海外の珍しい見映えのする鳥が取り入れられており、国内にはいないゴイサギの類などが飼育されていたようです。さらに、専門的な観点からすると、この水禽舎に使われていたケージは、コウノトリ等の大きい鳥が飛ぶためのフライトケージとしては不十分な大きさのものであったことも看て取れるとのことです[20]水禽舎の鳥類の判定、フライトケージに関する点など多くの情報について、日本獣医生命科学大学の梶ヶ谷博先生、本年度(平成29年度)博物館実習生の菊島桃子さんより、ご教示およびご協力をいただきました。

 先の水禽舎内部の写真には写ってはいませんが、前記の辛島氏のエピソードにもあった、鶴の鳴き声に関する話は他にも残されています。元箱根土地社員の佐伯氏からの聞取り資料には、「駅前の水きん舎には鶴が2羽いて、それが鳴くとここ〔佐伯氏のご自宅[21]佐伯氏のご自宅は、箱根土地株式会社が建てたサンプル住宅5軒のうちの1軒であったことも語られています。 :引用者〕まできこえた」とあります。さらに、『くにたちに時は流れて』では、水禽舎に関わる興味深い話が多く記されていますが[22]志田次子『くにたちに時は流れて』朝日新聞名古屋本社編集制作センター、昭和63年11月11日 「34 鶴の災難・水禽舎」(P72~74) 、その中にも「鶴は長い首を伸ばして天を仰ぎながら、クカーン、クカーンと甲高かんだかい良く響く大声で夜明けを告げました。鶴の夫婦は日暮れにも羽根を拡げ声を合せて鳴きました。物音一つしない国立のことですから、鶴唳かくれいは約五百メートル四方に轟き渡りました」(P73)と鶴の鳴き声の記憶が語られています。
 さらに同書には、この水禽舎で飼育されていた鶴(「丹頂鶴」であったとされています)にまつわる事件が紹介されています[23]前掲注22 P74。 。それは、「電工さん風の男」が水禽舎の鍵をこわして中へと進入し、「鶴の首をいきなり掴んで、上下の嘴を中程からポキンと切ってしま」ったというものです。何とも痛々しい内容ですが、この話の基になったとみられる事件について報じた新聞記事を先日偶然発見しました。
 それは、昭和4(1929)年1月16日の『東京日日新聞』府下版に掲載された「鶴の嘴を折る」と題した記事で、この事件は同月14日の昼頃に発生 [24]前掲注23には、「昭和五年頃」の出来事として記されています。したもののようです。
 記事では、「コンクリート工」の20代の男が、水禽舎の鶴に餌をやって楽しんでいたところ、鶴がこの男の指に食いついてしまったことから、それに腹を立てて「ペンチで鶴のクチバシをヘシ折つてしまつた」と報じています。鶴にとってはどうにも災難な話ですが、箱根土地が「東京の病院へ送つて手当を加へ」ていることから、一命はとりとめたようで、それがせめてもの救いといえるでしょうか[25]前掲注23では、「嘴は長い間かかってやっと元の形に戻りました」と、事件後の経緯についても紹介しています。

 このように様々な思い出話が語られるほど、水禽舎は人々に注目された施設でした。しかし、戦後(昭和20年代)に駅前広場を撮影した写真を見ると、池の上に設けられていたケージは撤去され、水禽舎としての機能を失っている様子が認められます。この水禽舎がいつまで存在していて、どのような経緯でなくなってしまったのか、調査不足のため、現段階ではその詳細は明らかではありません[26]明窓浄机館で開催中の「戦後復興期の国立の人々と風景」(平成30年3月23日まで)で展示されている昭和25年ころの写真資料には、国立会による円形公園の大修理がなされる前の様子を撮影しているとみられるもの(「国立開発25年記念の催しの日」30)がありますが、この写真でも水禽舎としては機能していないことが確認されます。
 管見の資料内では、『谷保村青年団下谷保支部活動記録』の昭和9(1934)年3月11日の記録に「場所ワ天神前ヨリ国立停車場前の鳥小屋迄〔下線は引用者〕」[27]『谷保村青年団下谷保支部活動記録 付・下谷保講中共有文書目録』くにたち中央図書館、昭和60年3月30日 P90。 との記述がみられる点、『くにたち:商店街形成史―国立大学町を中心として―』掲載の昭和12(1937)年頃とされている写真[28]前掲注10 P67掲載の「消防自動車御披露目式」関栄一氏提供写真(当館図録『まち、ひと、くらし―写真でみるくにたち―』(2002年10月)P14にも同写真を掲載)。 の背景にケージが写っているのを確認できる点などから、昭和10年前後までは水禽舎として利用されていたものと考えられます。しかし、その後いつごろまで存続していたのか判然としません[29]『国立空想観光案内 国立大学町 誕生の頃(大正十二年~昭和初期)』(国立桜図案 江津匡士)では、水禽舎について「戦時中供出された」と記しています。 。水禽舎については、今後の継続調査で何かしらの情報がありましたら、改めてお知らせいたします。
 最後に、元箱根土地社員からの聞取り資料にある、水禽舎を含めた駅前広場に関する思い出を紹介します。
 「会社〔箱根土地:引用者〕では、ステキなレコード音楽を流していた。みんな駅の前に出てきて、ロータリーのまわりにズラッとベンチがおいてあるので、そこで音楽を聞いたり、水鳥をみたり、車はいないし、のんびりした公園道路だった」[30]前掲注12聞きとり資料「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」。

 先日も、国立市国立駅周辺整備課による「旧国立駅舎の活用に関する懇談会」(10/14・17)が開催されるなど、現在、国立駅周辺整備に関してさまざまな取り組みが進行しています。開発の進んだ現代の国立では、前記の思い出話のような牧歌的ともいえる情景を再現するのは難しいかもしれません。しかしながら、駅前広場を含めた国立駅周辺が、市民の皆さんや国立を訪れる人々にとって、より親しまれる空間となるように整備されていくことは重要なことと考えます。この度の駅前広場における水禽舎の紹介が、今後の国立駅周辺整備への関心を惹起する契機のひとつとでもなればうれしい限りです[31]このたびの水禽舎に関する紹介については、『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』(前掲注2ほか)が刊行されていたが故に、開発当時の国立のまちの状況を確認し得たところが多々ありました。中島陟氏の個人資料が、このように刊行され、公開されていることの効果の大きさを痛感するとともに、情報を提示・公開していくことの重要性を再認識した調査でした。

 国立駅周辺整備については、下記のパンフレット(『国立駅周辺整備事業の現在』)にまとめられていますのでご参照ください。

 国立市HP:都市整備部 国立駅周辺整備課 国立駅周辺整備担当
 http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/machi/town/1505883075708.html

【中村記】


※脚 注   [ + ]

1. 現在の新宿区新宿5丁目の一部に所在していました。なお、『新宿園町会史』町会結成五十周年記念誌(新宿園町会、昭和57年7月)の「絵図でみる当町附近の変遷」(P38~44)には、新宿園となる前の浜野邸の地図や、閉園後に住宅地として分譲した後の町内居住者図などが掲載されています。
2. 『読売新聞』大正15年1月19日掲載広告。なお、この広告については、渡辺彰子『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』(株式会社サトウ、平成27年8月2日)P199掲載資料を参照しました。
3. 建築写真類聚刊行会編『建築写真類聚』第5期・第15回(遊園地の建物)、洪洋社、大正15年5月25日。なお、この写真集における新宿園の記載にも、「住宅地になる筈で最近閉園した」とあります。
4. 前掲注3写真集に拠れば、いずれの建物も箱根土地株式会社設計部による設計。
5. 箱根土地株式会社『第拾壹回報告書』(大正14年上半期)P14には、水禽舎について「同〔鉄骨網張建:引用者〕 壹棟 建坪貳拾坪五合貳勺」との記載があり、約88㎡の大きさであったことが知られます。
6. 箱根土地株式会社『第拾回報告書』(大正13年下半期)P2。同報告書P6には、両館新築に関して大正13年9月2日に警視総監より許可を得ていることが示されています。なお、新宿区立新宿博物館編『キネマの楽しみ~新宿武蔵野館の黄金時代~』(新宿区教育委員会、平成4年2月)P44に拠れば、孔雀館は大正14年1月頃に開館、同15年4月頃には閉鎖されたようです。
7. 野田正穂「新宿にあった遊園地の話」新宿区立新宿歴史博物館編『ステイション新宿』(新宿区教育委員会、平成5年10月)P72。
8. 前掲注2資料集P65下段掲載写真。移されてきた門は、東2号線と旭通りが接する辺りに位置していました。また、同資料集P35上段掲載写真や『東京商科大学商学専門部 卒業記念写真帖』(昭和3年3月)にみられる東京商科大学専門部の移転記念祝賀会の門柱も、同じ門柱が利用されたものとみられます。
9. 国立市史編さん委員会編『国立市史 下巻』(国立市、平成2年5月25日)P111。なお、同様の内容は、志田次子『くにたちに時は流れて』(朝日新聞名古屋本社編集制作センター、昭和63年11月11日)「35 孔雀・熊・猿」(P74~75)、および後掲注12聞きとり資料にも認められます。
10. 渡辺彰子『くにたち:商店街形成史―国立大学町を中心として―』(株式会社サトウ、2000年2月15日)P35。
11. 前掲注5報告書P14。なお、前掲注2資料集P196に掲載されている『新宿園案内』にも、「孔雀小舎」・「猿小舎」・「水禽舎」・「おっとせい」「小禽舎」といった諸施設が図示されています。
12. 『私たちの町くにたち』聞きとり資料(1)国立開発~昭和20年(国立町、国立市公民館図書室所蔵)「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」には、「音大〔現在の国立音楽大学附属中学校・高等学校:引用者〕の前に小鳥がかってあった」との話があり、これも新宿園の「小鳥舎」(前掲注11営業報告書)が移されてきたものかと察せられます。
13. 前掲注2資料集P25下段掲載写真、同P43掲載写真などを参照。
14. 前掲注12聞きとり資料「芦沢さん(もと箱根土地社員)の話 76.5or6月」。なお、この話に続いて「そしてだいたい分譲ができてもういいというので池を掘って水きん舎にした。ペリカン、鶴などいた。道の辻々にいろんな動物がいた。」と当時の状況が語られています。
15. 当館編『学園都市開発と幻の鉄道~激動の時代に生まれた国立大学町~』((財)くにたち文化・スポーツ振興財団、2010年10月8日)P28掲載、(株)プリンスホテル所蔵資料。
16. 前掲注15図録P28では、実現しなかった展望台計画の後に、噴水設置の計画があった点を指摘しています。『国立・あの頃』(国立パイオニア会、昭和47年11月5日)P181には、国立の記憶として水禽舎の中に噴水があったとされており、興味深いところです。
17. 『国立・あの頃』国立パイオニア会、昭和47年11月5日。
18. 第16代国立駅長であった堀越義克氏による『駅の歴史 国立駅』(昭和47年1月)P4にも、「当時の駅前広場には孔雀・ペリカン・鶴・オシドリ・がんなどの鳥が飼ってあって、ゆっくり鑑賞出来た」との記述があります。なお、当該資料は当館前館長の荒井敏行氏よりご提供いただきました。
19. 前掲注2資料集P61上段掲載写真。
20. 水禽舎の鳥類の判定、フライトケージに関する点など多くの情報について、日本獣医生命科学大学の梶ヶ谷博先生、本年度(平成29年度)博物館実習生の菊島桃子さんより、ご教示およびご協力をいただきました。
21. 佐伯氏のご自宅は、箱根土地株式会社が建てたサンプル住宅5軒のうちの1軒であったことも語られています。
22. 志田次子『くにたちに時は流れて』朝日新聞名古屋本社編集制作センター、昭和63年11月11日 「34 鶴の災難・水禽舎」(P72~74)
23. 前掲注22 P74。
24. 前掲注23には、「昭和五年頃」の出来事として記されています。
25. 前掲注23では、「嘴は長い間かかってやっと元の形に戻りました」と、事件後の経緯についても紹介しています。
26. 明窓浄机館で開催中の「戦後復興期の国立の人々と風景」(平成30年3月23日まで)で展示されている昭和25年ころの写真資料には、国立会による円形公園の大修理がなされる前の様子を撮影しているとみられるもの(「国立開発25年記念の催しの日」30)がありますが、この写真でも水禽舎としては機能していないことが確認されます。
27. 『谷保村青年団下谷保支部活動記録 付・下谷保講中共有文書目録』くにたち中央図書館、昭和60年3月30日 P90。
28. 前掲注10 P67掲載の「消防自動車御披露目式」関栄一氏提供写真(当館図録『まち、ひと、くらし―写真でみるくにたち―』(2002年10月)P14にも同写真を掲載)。
29. 『国立空想観光案内 国立大学町 誕生の頃(大正十二年~昭和初期)』(国立桜図案 江津匡士)では、水禽舎について「戦時中供出された」と記しています。
30. 前掲注12聞きとり資料「佐伯さん(元箱根土地社員)の話 1976.1.14」。
31. このたびの水禽舎に関する紹介については、『国立に誕生した大学町―箱根土地(株)中島陟資料集―』(前掲注2ほか)が刊行されていたが故に、開発当時の国立のまちの状況を確認し得たところが多々ありました。中島陟氏の個人資料が、このように刊行され、公開されていることの効果の大きさを痛感するとともに、情報を提示・公開していくことの重要性を再認識した調査でした。